
息子のおかげで将軍になった⁉︎ 虚弱体質の小便公方、家重
吉宗の後を継いで第9代将軍になったのは長男の家重でした。
家重はもともと虚弱体質で障害で言語が不明瞭であったこともあり、幼少期から勉学や武芸に励むことなく大奥に籠りがちでした。
きっと長男であり体が弱かった事から周りも大いに甘やかしたのでしょう。
次第に自堕落な生活となり、女性や酒に溺れさらに健康を害していきました。
吉宗の後継として不適格の烙印を老中などから押されたこともありますが、吉宗自身が紀州家から来た負い目があること、さらに吉宗の息子たちや御三家などを巻き込んだ権力争いを引き起こしかねない状況もあったため、「長男が家督を継ぐ」という絶対的ルールを自ら示し、家継を将軍としたのです。
無能であるというレッテルが貼られた一方、田沼意次のような優秀な幕臣を見出していることから「人事能力には長けている」評価もされています。
>残念な評価は周りからの人気がなかったこととマネージャータイプでプレイヤー能はなかっただけなのかも
吉宗が直々に帝王学を引き継いだ家治。愛妻家将軍の素顔とは?
父・家重の周囲からの評価が芳しくない一方、吉宗は家重の息子である家治の聡明さに目をつけ、自身が家重に伝えられなかった帝王学の類一切を伝授していきました。
才能もあり武芸にも秀でている家治。実際に将軍になったらどうなったかというと…初めは田沼意次を側用人、松平武元を老中とし共に政治に励んでいましたが、松平武元が死亡すると田沼に一切を任せ、将棋などの趣味に没頭していきました。
>幼い頃から意識し続けてきた「祖父吉宗のように名君たらん」ことに疲れたのかも…
なお珍しく「愛妻家」であり、御台所の五十宮との間に2女をもうけ*、側室が長男男子・家基を出産すると迷わず五十宮の元で育てさせたという。
>イヤイヤ側室を持つも、子供が生まれたら通わなくなった真の「愛妻家」
*御台所はあくまでも公家の顔を立てながら将軍の生母として権力を持たせないようにする力が働いたと言われ、御台所の子供は全て夭折している。
御台所は公家の出身で身体が弱いこと、白粉に含まれる水銀なども夭折の原因と言われている。
53人の子だくさん! オットセイ将軍と揶揄された家斉期は文化も大奥も絶頂期
続いて将軍に即位したのは一橋家の出身・家斉。家治の長男・家基が急死したため急遽一橋家から将軍を建てることになったのだ。
政治的な面では家治が重用した田沼意次を罷免し、御三家の松平定信を起用しともに寛政の改革を進めたが、あまりにも厳格な政策だったため反発を生み出し、家斉と定信も仲違い。定信を罷免することで寛政の改革はあえなく終わりを迎えてしまいました。
そして徳川将軍の中で最も破格だったことといえば、16人の妻妾と53人の子供がいた件でしょう。
東映エログロ作品にも家斉は華麗に登場する。むしろこちらがメインではないかと言っても過言ではない。
「エロ将軍と二十一人の愛妾」「徳川セックス禁止令 色情大名」などエロ✖︎パロディ✖︎コメディでライトに見れるエロ歴史物の大家として君臨するなど、側室が多いということは大奥が栄えたということで大奥系の作品での登場がなかなか多いのであります。
「大奥絵巻」(1968年)
美人三姉妹が大奥に召され、姉妹で醜い権力争いを繰り広げる。佐久間良子、淡島千景、大原麗子、家斉将軍に田村高廣。
「徳川の女帝 大奥」(1988年)
将軍に側室を差し出し、世継ぎを産むことが出世への近道とされた時代に、中野清茂が僧侶の娘・美代に目をつけて彼女を養女にして大奥に送り込んだ。部屋子から側室、男児の母となり絶大な権力を誇った。家斉の側室・お美代の方をモデルにした日活ロッポニカ作品。
大奥に力を注げる=世の中は安定し化成文化が誕生
家斉はお酒大好き、女性大好きでも政治はやる気がありませんでした。でも特に世の中は乱れることがなく安定していたので、ここでも町人文化が栄えました。
これを「化成文化」と言います。
元禄文化に比べると「より面白くより滑稽な作り話」がもてはやされました。
元禄文化は町人たちが主人公の「実話」が流行ったのよね〜
代表的な作家として葛飾北斎、喜多川歌麿、東洲斎写楽、伊藤若冲、そしてシーボルトによって蘭学が広がりを見せる本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家といった複数の顔を持つ平賀源内などの多彩な才能たちが世の中を盛り上げました。
「必殺仕事人 アヘン戦争に行く」(1983年・テレビスペシャル)
アヘン密輸事件で英国清国の悪徳商人に騙され殺害された父母の怨みを晴らすために、仕事人たちがなんと、気球に乗って清国まで行って仇を打つというストーリー。この気球を作った平賀源内が劇中に登場する。
「風雲児たち 蘭学革命編」(2017年)
NHKドラマ。みなもと太郎原作、脚本三谷幸喜。西洋医学書の和訳に前野良沢と杉田玄白が共に尽力するも、出版された「解体新書」に良沢の名前はなく、玄白だけが名声をほしいままにした。いったい2人に何があったのか?